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​【世界・同時・多発 芸術宣言】

テロリズム・オブ・アート

◇  ◇  ◇

芸術によるテロに被害者は居ない

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P1020038 (2).JPG
詩のような題=Poetic Title

たいこの むかしから 

 

あるがままという たいだを 

ただ まんぜんと つづけてきた だいしぜんの うずに 

 

さからうことも できずに

もののみごとに まきこまれながらも

 

なんの こんきょも ないというのに

こんなにも パンパンに ふくれあがってしまった 

にんげんの とかいは

 

こうぎょうかの もたらす 

とてつもなく ふきんこうな きんこうを

いまも へいぜんと たもちつづけている

 

その じんこうという こざかしい くうかんの なかで

みずからの ちんけな ちせいと

ごうまんな りょうしんの かけらに うめつくされて 

おぼれしんで いきながらも 

 

ニコニコと ほほえみを うかべて 

ていさいを つくろうことや 

せいろんという じょうひんな ぼうりょくを チラつかせて

じふしんを みたすことだけは かかさない

 

 

そんな あいらしい にんげんたちが とじこめられてしまっている 

 

『この ぜつぼうてきに へいさてきな くうかんを

 いま ぼくの なかで かいほうする』

 

あの あおぞらの きれつに むかって

«テロリズム・オブ・アート≫

​◇ ◇ ◇

≪サイレント・レヴォリューション≫

芸術による平和的で誰でも参加できるテロリズム

それはテロを消滅させるためのテロなのです

   

すべての人がアートのテロリストに成れば

その平和というテロを止める人はもう居ません

※上の絵は、私が仮想的かつ個人的に展開しているところの【Silent Revolution by Art-in-no-fame】=『芸術することで世界を埋め尽くしてしまおう』という活動を、世の中に向けて提案するためのポスターという設定で描いた絵です。

「全ての人が参加できる唯一の非暴力的なテロ=革命」という芸術の持っている可能性を提示するものです。

ほかの絵とはスタイルが違いますが、「ポスター(ちらし)」としてデザインしたものですので、そういう意味で見ていただければと思います。

※Above picture was drawn as a poster promoting my activity that is a virtually set activity called [Silent Revolution by ART-IN-NO-FAME].:116cm×109cm

[Silent Revolution by ART-IN-NO-FAME]=Meaning [Let’s fill the world with doing art]

It’s a Silent Revolution, a Peaceful Revolution, a Revolution in Full Participation, and a Revolution by ART-IN-NO-FAME.

​§ここで言うところの「テロ」とは

​ここでは、「テロ」や「テロリズム」という言葉を、やや特殊な定義に基づいて使っています。

 

たとえば、多くの人が「テロ」を「暴力」や「破壊」と結びつけてイメージしていると思いますが、現時点においては、それは「テロの表面に張り付けられたレッテル」に過ぎません。

確かに、過去から現在に至るまで、「テロ」は民衆に恐怖(テロル)を与え続けてきましたが、その民衆に恐怖(テロル)を与えるという「テロの在り方」は、もはや意味を失いつつあります。

もう、「暴力的なテロの時代」は終わったと言っていいでしょう。

本来の「テロ」は、「権力者による暴力」に対する「抗議」であり、「暴力」とは正反対の位置にあるはずのものなのだと思います。

その「テロリズムの本質」を掘り起こすべき時が、今、間違いなく来ています。

 

「9・11アメリカ同時多発テロ」以来、世界的に多発する「テロ」は、すでに「現在の日常」と化してしまったと言っていいでしょう。

そんな中で、「暴力」や「破壊」によって、民衆に「その場だけのテロル(恐怖)」を生み出すことは、今では「テロ」とは言えなく成りつつあります。

一人の人間が、自らの命を犠牲にして自爆しても、たった一時間後には忘れ去られてしまいます。十人が犠牲になるようなテロが起きても、『またか』と、翌日には、誰ひとり「テロル(恐怖)」を感じることなど消えて無くなってしまうのです。それどころか、数千人規模の犠牲を出した「9・11」は、本当に今もまだ「テロル」としての意味を維持していると言えるのでしょうか?「9・11」のような大規模なテロが、「本当の意味のテロル」ではなく、単なる「日常の恐怖」に成ってしまった今、いったい、何人の犠牲者を出せば、それが「テロリズム=抗議」としての意味を持つことに成るというのでしょう?

何をすれば、その抗議の声が届くというのでしょうか?

それは、いったい、どこに向かって届ければいいのですか?

そして、誰に対して叫べばいいのでしょう?

 

もう、「暴力」や「破壊」による「抗議の声」が、誰かに届くことはありません。

また、民族・宗教・イデオロギーなどの違いから、それらの主張を押し通すための手段として「テロ」が発生するというのも、現時点での「テロ」の一般的な解釈だと思いますが、この考え方も意味が希薄になりつつあると言っていいでしょう。

 

民族・宗教・イデオロギーの三つに経済・言語などを加えても、それらの違いの意味が希薄に成りつつあることは確かなことだと思います。

宗教は、世界的に「他の宗教」を認め合うように成ってきていますし、民族性についても同じことが言えると思います。

経済に目を転じれば、もはや完全に「世界経済」は連動していますし、言語においても、今後、数世代のうちには、英語の全く通じない地域は、ほとんどなくなってしまうに違いありません。

私自身はこれらのことを無条件に肯定するつもりはありませんが、これらのことが既成の事実と成りつつあるということは確かなことでしょう。

​そして、現在、このように世界が地球規模で動いていることを考えれば、イデオロギーが画一化していくのも必然的なことなのでしょう。

 

確かに、まだ、それらの立場の違いは「テロ」や「紛争」などの原因となってはいますが、長期的に見た場合、それらは「テロ」の要因とはならなく成っていくのだと思います。

こんな将来が見えてきた現在、どうして「テロ」は無くならないのでしょう?

もしかしたら、もうすぐ「テロ」は減少に転じると思いますか?

それならば、「テロ」の悲惨さが増す一方なのは、なぜなのでしょう?

それは、ただ単に「優秀なテロリスト」が増えたということなのでしょうか?

いや、他にもっと根本的な原因があると考えるべきでしょう。

つまり、それは、「社会」が「人間のための社会」に成っていないからです。

そうです、いま、「テロル=衝撃」を与えるべき相手とは、「誰か(人間)」ではなく、「社会」なのです。

今や、「人間」が「社会」を運営しているのではなく、「人間」が「社会」に酷使されているだけなのです。

その「人間を使役するシステムと化した社会」に、「テロル(心理的衝撃)」を与え「逆回転」を生み出すことこそが、唯一「現在形のテロ(抗議)」と成り得るのだと、私は思っています。

現在の、この「便利で清潔に整備された社会」は、果たして「人間」を幸せにしてくれているでしょうか?

100年前と比べて、飛躍的に生産力が向上しているにもかかわらず、その100年前と比べて、「人間」が幸せに成ったと言い切れる人がどれくらい居るのでしょう?

物質的には確実に豊かになっています。

いや、むしろ、「物質的な豊かさ」は余っていると言ってもいいかもしれません。

少なくとも、「現在」は、人間にとって「食うには困らない時代」であるといっていいでしょう。

しかし、貧しい人は居なく成りません。

悲しい出来事も一向に無くなりません。

笑うことすら出来なくなってしまった子供たちが、この「豊かな社会」にたくさん居ます。

救われることのない「孤独」を抱えたまま死んでいく人は、日増しに増えています。

「現在」は、確かに「モノであふれかえっている時代」だと言うのに・・・・・

 

これらのことから目をそらし続けることが出来る人が、本当に居るのでしょうか​?

以上のことから、私は、現在における「新たなるテロリズム」を、「破壊から創造への逆転」・「暴力から平和への反転」と定義しています。

つまり、そこで、破壊されるものとは「人間を消耗品のように使い捨てにする社会」と、その社会のヒズミによって生み出されてしまう「暴力的なテロ」そのものなのです。

そうです、これは「テロを破壊するためのテロ」なのです。

「暴力」によって人や街を「破壊」する「暴力的なテロリズム」を反転させて、「芸術」によって「人間の生(せい)に貢献する社会」を「創造」する「逆・テロリズム」を目指します。

 

これによって、現在の「人間を使役するシステムと化した社会」に反対方向の回転を生み出し、「逆回転社会」を再構成することを目標としています。

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​§テロリズム・オブ・アートという考え方

テロリズム・オブ・アート」という考え方について、もう少し具体的に解説いたします。

​上述のように、私の中の「テロリズム」は、すでに「テロ=破壊」から「テロ=創造」へ、そして、「暴力的テロ」から「平和的テロ」へ、さらには、「テロル=恐怖」から「テロル=感動(心理的衝撃)」へと反転・逆転しています。

それは、即ち、「芸術」が創り出す「感動」が、「社会」に対する「テロル=心理的衝撃」と成り得ることを意味しています。

すべての人が「芸術者」として、かつ、「無名人」として芸術に参加し、無名なままでもそこに喜びを感じることが出来るように成ったとき、それは「逆・テロル」と成り、社会を逆回転させる原動力となります。

ここで、断じて言っておきますが、これは夢物語などではありませんし、視点の変換でもありません。

むしろ、現在の、この「プラスティックな世界」こそが、「あまりにも完全なるフィクション」なのです。

そして、この完璧に仕組まれた「現在というフィクションの世界」こそ、「現代アートが作り出した最高傑作という嘘」でもあり、「芸術を殺す芸術」でもあり、そこに暮らす人間にとっての「生なき世界という罠」でもあるのです。

本来ならば、「現代という時代」が「プラスティック製の虚構」で覆い尽くされていくのを止める役割を担っていたはずの「芸術」が、自らに与えられた「天才」という偶像を正当化し、その時点ですでに「新たなる権威の象徴」でしかなくなっていた「天才伝説」を強化し続け、結果的に「20世紀」を「完全なる虚構の時代」に仕立て上げてしまったということは、もはや事実として認めなければならないことだと思います。

そうです、「現代アート」は、自らが紡ぎだした「芸術の20世紀というフィクションの世界」にもっともらしい体裁を与え、その実験段階の試作品を最高傑作であるかのように見せかけるために、「人間の生」を置き去りにしてしまったのです。

その結果、プラスティックとアスファルトで覆いつくされた「現代というフィクションの時代」が「壮大な罠」として築き上げられ続け、それが膨れ上がって行くたびに、「人間の生気」は、21世紀に成った今もなお失われ続けているのです。

そして、この「無際限の自由という虚構」を反転させることが出来るのは、ほかならぬ、それを創り出した「芸術」自身しかないのです。

「芸術」が、自ら創り出し、すでに既成概念と成ってしまっている「虚構の自由」を突き崩し、人の心に「テロル=衝撃」を与えることにより、人々の魂は解放され、真の自由空間に向かって一歩を踏み出す勇気を得ることが出来ます。

確かに、その「真の自由空間」においては、「芸術の20世紀」が提供し続けてきた「刺激や快楽」を得ることは出来なく成るでしょう。

つまり、「芸術」においても「才能」や「個性」に与えられる」「評価」や「「権威」」に頼ることは許されなく成り、「努力」や「労苦」と言う「地道な作業」が求められるように成るということです。

そして、これは「芸術」に限ってのことではなく、あらゆることに反映されていくことに成ります。

本来、「才能」も「個性」も「労力」を伴った時にこそ輝くものであり、磨かれない石が輝くことなどないのにも関わらず、現在、あたかも、そういった「現実を軽々と飛び越えてしまうような才能」や、「磨かれることなど必要としない個性」が存在するという「迷信」が広められ、それらは既に常識と成ってしまっています。

​その結果、多くの「才能」や「個性」が、かえって踏みにじられ破壊されてしまうという本末転倒が日常的に起きています。

もう、そういう「特別な才能や特別な個性」を発揮し続けるためにドラッグに溺れるアーティストやミュージシャンを、私は見たくありません。

​もう、彼らに「真面目に努力するという道」を用意してあげてもいいのではないでしょうか?

 

つまり、ここで言うところの「自由=フリーダム」とは、決して「イージー=簡単」ではないし、「スタイリッシュ=お洒落」でもないということです。

その上で、なお、その「自由」を選択することを、私は、唯一にして「最も芸術であること」と考えます。

もう、「芸術の20世紀」が作り出してしまった「虚構の自由」に依存し続けることは、出来ないでしょう。

このまま、「芸術の20世紀」が生み出してしまった「刺激と快楽への依存」を続ければ、今後は、「失われるもの」の方が大きく成っていき、得られるのは「残りかす」だけに成るでしょう。

その「依存」を続ければ、人の心がボロボロに成るだけ、「依存」とは、そういうものだと思います。

そして、すでに、そう成りつつあるのが「現在と言う時代」の実像に他ならないのだと、私は思います。

ほぼ全ての人が、「尊厳ある無名人」という立場で、「芸術者=創作者・鑑賞者・批評者」のいずれかとして、「テロリスト・オブ・アート」と成り、その解放された精神と肉体に生気を取り戻したとき「社会」は逆回転を始めるように成るでしょう。

それは、「工業化した社会」が「人間」を酷使するという現在の回転から、社会がもたらす「物質的な豊かさ」を、人間が「人間自身の心の豊かさ」に変換していくという逆方向への反転なのです

つまり、これは、「芸術によるテロリズム」でもあり、「無名人によるテロリズム」でもあり、「全員参加のテロリズム」でもあるのです。

​大多数を占める「無名人」が「芸術のテロリスト」となって参加し、完全に無名のままで「芸術者」としての尊厳を保つことが出来るように成ったときには、この「創造と平和のテロリズム」を止める者は、もう誰も居ません。

 

全ての人が「芸術のテロリスト」に成れば、「テロを止める者」も「被害者」も居なく成ってしまうのですから。

※ここで「逆転」や「反転」という言葉を使っていますが、それは単なる「視点の変換」を意味するものでは  

ありません。

現在と言う時代が、すでに「逆転した異常性を持ってしまっている時代」であるという前提で、その不自然

に逆転してしまった状態を、自然な状態に戻すという意味で「逆転」や「反転」という言葉を使っています。

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