【オーバー・ワーキング・スロー・アート】
◇ ◇ ◇
「自由」にも飽きてきたなら
もう一度「一所懸命」に戻ってみたらどうだろう
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§もう「努力」を恥じることはない§
それとも「もうどこにも居ない天才」を、まだ追い続けるのか?
「スロー・アート」=『のんびりした気持ちで芸術に取り組もう!』
そして、
「オーバー・ワーキング・スロー・アート」=『出来るだけ一所懸命に、芸術に時間をかけよう!』
ということに成ります。
本来ならば、「スロー・アート」つまり「のんびり芸術にとりくむこと」で十分なはずなんだと思います。
しかし、私は、現在「芸術(美術)」が置かれている状況を考えた場合、『このままのんびりしていたら「芸術」は消えてしまうんじゃないか?』と思うのです。
現在、「芸術」には、「規定」や「定義」と言えるものが、まったく無いと言ってもいいと思います。
しかも、そのような状態が、すでに100年ほども続いてきてしまいました。
それは、本当に「自由なこと」だったのでしょうか?
「無規定であること」によって、誰でも芸術家を名乗ることが出来るように成りました。
「無定義であること」によって、どんなものを芸術と言っても、それを間違いだと言うことは出来なく成りました。
そのこと自体は、悪いことだとは思いませんし、むしろ良かったのだと思います。
しかし、「まったくの無規定であること」「まったくの無定義であること」によって、「芸術の存在」を確認することが出来なくなってしまっているのではないでしょうか?
(それ以前に、実際には、『誰もが「芸術家」として認められるようになった』というわけでもありませんが)
つまり、それは、「芸術の存在」自体が消えかかっていると言うことです。
少なくとも、20世紀初頭において「芸術に関する規定や定義」を緩めて、「芸術の解釈」を押し広げようとしたのは、それまでの、あまりにも窮屈な規定や定義を抜け出すためであって、間違っても、「芸術の存在を消すため」ではなかったはずです。
それは、「芸術」に「新しい領域」を与え、「芸術」を解放し、「芸術」を新たな展開に導くためのものではなかったのでしょうか?
もし、そうだとするならば、「芸術の現状」は、あまりにも当初の目的を逸脱していると言わざるを得ません。
しかし、それが100年も続いてしまいました。
そんな現在の状況において『のんびりやっていれば、きっと、何かが見えてくる』のでしょうか?
「現在の芸術が置かれている状況」を考えれば、『のんびりやるだけ』では少し足りないのではないでしょうか?
私は、100年分を取り戻すまでは、少しだけ「必死になること」が必要なんじゃないかと思っています。
ただし、その「必死」を、出来る限り時間をかけてやろうと考えているわけです。
いや、もう一歩進めて言えば、「時間や労力を費やすこと」こそ、「今、提示することが出来る唯一の芸術性」なのではないかと思うわけなのです。
つまりは、そういうものが、ここで言うところの「オーバー・ワーキング・スロー・アート」なのです。
これまで、「芸術」の中でも、特に「美術」という分野には、ある意味で「無際限の自由」が与えられてきたと言っていいと思います。
しかし、『自由過ぎる』のです。
言い換えるならば、『「自由」にも、飽きてきてしまった』のです。
だったら、もう一度「一所懸命」に戻ってみてもいいんじゃないでしょうか?
もともと「芸術」は「人が最も一所懸命に成れる分野」であったと思います。
それなのに、なぜ、「芸術」は「努力=一所懸命」を捨て、「天性の才能=天才」ばかりを追い求めるように成ったのでしょう?
おそらく、それは、「努力」が、過去の「窮屈な芸術」を思い出させる「捨ててしまいたい過去の象徴」のように見えてしまったからではないかと思うのです。
そして、「天才」とは、神を失った時代の「神の代替物」であり、また、「窮屈な時代」を忘れさせてくれる「「夢の象徴」であったからではないかと思います。
しかし、その「夢」はすぐに「新たなる現実」と成り、「新たなる権威」と成って行きました。
そして、その「天才という伝説」に100年ほども依存し続けた結果、すでに「新たなる窮屈な時代」が築き上げられてしまっています。
もうそろそろ、「虚構の世界」を捨てる時ではないでしょうか?