【アート・イン・ノーフェイム】=【芸術の無名性】
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すべての人が「ワン・アンド・オンリー(唯一無二)」に成れば
「有名な芸術家」は居なくなる
§【無名人宣言】
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「無名人」とは「普遍的な人間」のこと
「有名人」に「普遍性」はない
§【改訂・無名人宣言】§
《 2024年より、私は N という名前で芸術者としての活動を行っていきます。》
◇説明◇
N とは、芸術に関わるすべての人が自由に使うことが出来る名前として設定した無名人の総称です。
無名人として活動したい人は誰でも N を名乗ることが出来ます。
従って、 N と言う名前で発表される作品や活動にネームバリューが発生することはありません。
当然、「権威」や「特権」が生じることもありません。
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※上が2024年からの改訂版で下は改訂前の文章です。
今後も、下の文章は有効ですが、上の説明から分かるように、下に書いてあることは、今後ほとんど必要性が無く成ると思います。
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§【旧・無名人宣言】§
《 私は、「なか ふたつ」という名前が、もし万が一、マスコミ的な規模で「有名」に成った場合には、この名前を捨て、新たな名前をもって「ゼロ」から活動を再開することを、ここで宣言いたします。
また、芸術上の活動において、実名や顔写真など、私個人を特定できるような情報をマスコミに拡散させることについては、極力避けるようにいたします。
さらには、私の実名がマススコミ的規模で拡散され、明らかに一般的に認知されたと判断した場合には、私自身の「芸術者」としての活動を終了することを約束いたします。》
※ここで言う「有名」とは、マスコミ的な規模で世間一般に認知されたもののことを指します。
社会的な影響力を持たないような限定された範囲での知名度であれば、「有名」からは除外して考えます。
必ずしも、「無名であること」が目的なわけではなく、「権力に近づかないこと」を重視しています。
私は、「無名人であること」を、「芸術者としてのただ一つの条件」であると考えます。
つまり、世の中で唯一、「芸術者である資格」を与えられない人が居るとするなら、それが「有名人」だと言うことです。
なぜ「有名人」には「芸術者に成る資格」が与えられないのか?
それは、「有名人であること」は、現在の芸術の世界においては最も逃れようのない「権力」だからです。
私は、「芸術者」は、自らが「権力者」であることを拒否する必要があると思っています。
現在、「芸術の世界」においても、ほかの分野と同じように「有名」であることが「権威」を持っています。
そして、それは、当然「権力」と直結しています。
そのことによって、「芸術の世界」は閉ざされ、本当の意味で解放されているとは言えないでしょう。
なぜなら、そこに「格差」があるからです。
何事においても、「格差」があるところに「自由」は生まれません。
現在、専門的な意味で「芸術」に関わりを持とうとする人は、「有名になること」を目指さざるを得ません。
もともとの財産に恵まれていないような者が、「無名であること」を選択すれば、確実に「芸術の世界」から振るい落とされていくことに成ります。
だから、「有名であること」を目指す以外に道はありません。
(もともと財産を持っている者は、その時点で既に権力を与えられていますが)
その目標を達成して、らくらくと「有名人」に成った者は、らくらくと「権威」を手にすることに成ります。
そういう状況で、その「権威」を手に入れた者が「権力者」に成らずに居られるものでしょうか?
私は、それを不可能だと思いますので、「有名人」には、「芸術者」と成る資格が与えられるべきではないと考えるわけなのです。
従って、現時点においては、「芸術の世界の内側」に「真の芸術者」は存在し得ないということに成ります。
つまり、「真の芸術者」は、すべて「芸術の世界の外側」に居るということに成ります。
(少なくとも、「現在の芸術の中心に居る人」は、「真の芸術者」からは除外します。)
そして、今後、私が考えるところの「芸術者」と成り得るのは、世界中のいたるところに70億人ほども居る「無名人たち」ということに成るわけです。
※「芸術者」というのは、「芸術家」という言葉の代わりに、私が使っている言葉です。
「芸術者」は「創作者」・「鑑賞者」・「批評者」の三者を含めた意味で、その三者を対等な関係として考えるために、この言葉を使っています。
ほぼすべての人が「芸術者」であるということは、「芸術」を限りなく自由に、そして限りなく広く捉らえることを前提とした話です。
つまり、ありとあらゆる表現をすべて「芸術」の範囲内としたうえで、そこで「創作する側」と「鑑賞する側」の両方に居る人を全て包括した場合、そこに含まれない人はほとんど居なく成るだろうという考えで、そういうことを言っているわけです。
従って、それは、決して「画一化した芸術」を意味するものではなく、それとは全く逆の「全ての人の個人性に根差した芸術」を意味するものと考えております。
§「ブレイキング・マス&セイビング・ワン」
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「個性」や「才能」なんてもう要らない
(それは「多数であること」の象徴)
いま必要なのは「ごく普通の個人性」なのだから
(それは「一人であること」の象徴)
現在、「個性」とか「才能」という言葉が使われるとき、その言葉が「上等な個性」や「一級品の才能」というような、上下の差を含んだ意味に成ってしまっているということは否定できないことだと思います。
つまり、「個性」=「上等な個性」であり、「才能」=「一級品の才能」ということに成っているわけです。
しかし、「人間の個性」とは、あくまで「個人性」のことであり、それがどのようなものであっても、「その人らしいもの」でありさえすれば、それを「個性」と言って何の問題もないはずです。
また、「芸術に関する才能」は、「芸術」が、「自由な分野」であることを前提に考えるならば、「いかなる才能」であっても、それが「その人の才能」である限り、それこそが「最高の才能」であるに違いありません。
それならば、「平凡な個性」もあるはずですし、「ダメな人の才能」だってあるはずです。
そして、それらの「一見すると一段劣るような個性や才能」と、「誰もが認めるような上等な個性や才能」の間に上下の差はないはずなのです。
少なくとも、本来の意味での「個性」や「才能」は、「横並びの違い」を表すための言葉であって、「上下の差」を表すような言葉ではないのではないでしょうか?
しかし、はじめに述べたように、「個性」といえば、必ず「上等な個性」を意味しますし、「才能」といえば、必ず「一級品の才能」だけを意味してしまいます。
おそらく、多くの人が、それでなければ「個性」と「才能」という言葉の意味が成り立たないと思っているのだと思います。
過去には、「芸術」においても『ある一つの頂点に到達すること』が追求されてきたと思います。
しかし、「20世紀以降の芸術」において、追求されているのは「自己表現」だと言っていいでしょう。
それは、つまり、。すべての人に一つづつの「それぞれの頂点」が設定できるようになったということです。
もちろん、今でも『ある一つの頂点を追求したい』と考えることも自由ではありますが、それは、「芸術全体の中」で見た場合、「一つの自己表現」と成ってしまうわけで、ほぼすべての人が『同じ一つの頂点を追求していた時代』とは、その意味がまったく違ってきてしまうと思います。
そんな時代においての「個性」とは、「才能」とは、果たして、「上下の差」が有り得るものなのでしょうか?
そんなことに「差」をつけることに、今でも、意味があるのでしょうか?
私には、そこに、どうしても意味を見出すことが出来ません。
現在、「個性」と「才能」というべきものがあるとするならば、「すべての人に同じ量で、すべての人に違う質をもって与えられた個性と才能」なのだと思います。
つまり、「個性」にも「才能」にも「上下の差」は無く、「横並びの違い」だけがあるということに成ります。
このことが、多くの人に認識されるように成っていけば、すべての人が「ワン・アンド・オンリー=唯一無二の存在」に成り、「芸術の世界」に「有名人」というものは居なく成るでしょう。
もし仮に、それでもまだ「芸術の世界」に「有名人」と言われる人が居たとしても、その「有名であること」に、もう今のように重要な意味は無くなってしまうでしょう。