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Artist's Policy

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§【芸術者とは「創作者・鑑賞者・批評者」のこと】§

​「芸術家」という名前によって、「創作者」の存在だけがクローズアップされることに成り、その結果「芸術」は商品化され、「鑑賞者」は置き去りにされてしまいます。

「芸術者」すなわち、「創作者」・「鑑賞者」・「批評者」の三者が、完全に対等な関係で対峙し、【創作~鑑賞~批評~創作~】という循環が生まれた時、初めて芸術表現が実体のあるものに成り、「商品化された芸術」に貼られたレッテルは剥がされて、「芸術の核」が現れることに成るのだと思っています。

その時には、ほとんどの人(少なくとも今よりは遥かに多くの人)が「芸術三者」のいずれかとして、何らかの形で「芸術」に関わりを持つように成って行くのではないでしょうか?

もしも、そう成った時には、芸術はすべての人が自由に参加できるものに成り、すべての人に平等に与えられる「喜び」となるのだと思います。

その時、「芸術者」の周囲には、「勝敗の無い世界」が生みだされ、すべての人が、「一人一人ちがう個人」と成るのだと思います。

※私は、芸術に関わるあらゆる人を、対等な立ち場と考えるために、「芸術家」と呼ぶ代わりに、「芸術者」(=創作者・鑑賞者・批評者)と呼んでいます。

※これは、『すべての人が「同じ芸術」に関わりを持つべきである』といった画一化を目指すものではありません。

これは、『すべての人が「誰とも同じでない自分を見つけ出すこと」を「芸術」と言っても差し支えないのでは?』という提案なのです。

§【幻想の日常化計画】§

​本来、非日常であるはずの「幻想」を日常空間に出現させることは、現時点での「芸術の方向性」を示していると思います。

これまで、美術館や公共の場で見る場合はともかく、少なくともプライベートな日常空間において鑑賞される芸術作品は、常に「インテリアとしての芸術」であり、その空間を演出する「居心地の良いモノ」と言う枠を与えられ、そこから抜け出すことが出来ませんでした。

しかし、「現在と言う時代」の中で、「日常空間における芸術作品」に与えられる意味も日々変化し続けています。

現在、あえて芸術作品をプライべートな空間に持ち込もうと考えるときに、その「インテリア性」は、今でもまだ必要でしょうか?

「壁に絵を飾ること」は、今でもまだ「居心地の良いこと」でなければ成らないのでしょうか?

そして、その「居心地の良い絵」は、今でも「人の心を癒す力」を持っているのでしょうか?

いや、現在、「居心地の悪い絵」を日常に持ち込むことにこそ、「芸術の意味」そして、「人の心を癒す力」があるのだと思うのです。

 

そんな考えから、私は「絵の中の世界」と言う「幻想」を「日常空間」の中に持ち込むことで、「現在形の癒し」となるような芸術の在り方を模索していこうと考えています。

「いま、壁に絵を飾るということ」は、「幻想を日常空間の中に浮かび上がらせること」なのだと思っています。

そして、私にとっての「幻想の世界」こそが、下に述べる「異現実の世界」ということに成るのです。

          § 【芸術表現の多重化】 §

   §【異現実のリアリズム=具体性のある抽象表現】§

「芸術作品」と「その周辺にあるモノ」との関係を見直し、芸術表現の領域を広げることを目指しています。

現在の「芸術の場」に「行き止まり感」を感じている人は、決して少なくはないでしょう。

しかし、ほぼすべての人(もちろん私自身も含めて)が、「才能」とか「個性」とかという言葉に呪縛されてしまっているために、「創作者個人の力量」で、「行き止まりにある壁」を乗り越えなければならないという、「極めて困難な課題」を自らに突き付ける羽目に成ってしまっているのではないでしょうか?

でも、よくよく考えてみれば、その「極めて困難な課題」こそが、「行き止まりにある壁」の正体なのではないかと思います。

つまり、いつの時点からか、「個性や才能が使われるべき創作の領域」が、使い果たされて、あまりにも狭くなってしまったために、「その領域」を確保することに「個性」や「才能」が使い果たされてしまい、本当の目的である「自己表現」に使われる前に燃料切れになってしまうという本末転倒が起きてしまっていると思うのです。

その「領域」とは、つまるところ「スタイル=形式の領域」に他なりません。 

本来、そうした「スタイルの領域」とは「自然な形で存在している領域」であり、その「そこにある場所」の中でこそ、「創作者」は、最も自由に、そして、最も無心になって創作に没頭することが出来るのだと思います。

そんな考えから、私は、失われてしまった「芸術(創作)の領域」を広げるために、言い換えるなら、「スタイル」の種類を増やすために、「スタイル」を「形式的なパターン」と捉え、複数の「形式的なパターン」を組み合わせることで、「スタイルの種類」を増やすことが出来るのではないか?と思っています。

ただ、そこで、「表現形態」そのものを組み合わせてしまうと(コラボレーションと言われるような形で)、「領域」を果てしなく広げられるように成るとは思いますが、それと同時に、「芸術表現」を果てしなく薄めてしまうことにつながる可能性が高いと考え、既存の「表現形態」を崩さずに、つまり、私の場合で言えば「絵画の中での多重化」を目指しています。

もう少し詳しく言うと、これまであまりにも軽視されてきた「絵と絵の周辺にあるものとの関係」を見直し、そこに明確な役割を与えることで、「新たな意味」を創り出すことが出来れば、「創作の領域」を確保することもできるだろうということです。

現在、私が具体的に制作に取り込んでいるのは、「額」と「題(タイトル)」ということに成ります。

「題(タイトル)」については、実際に「詩のような題=ポエティック・タイトル」として、絵に長い題をつけています。

このサイトの【Gallery】にも、それらの絵と「詩のような題」がありますので、興味のある方は、下の【ギャラリーへ】のボタンをクリックしてご覧ください。

また、「額」については、時間がなくて、今はほぼ手付かずの状態ですが、私は、ほとんどすべての絵に「枠」と呼んでいるストライプの部分を描きこんでいます。

それは、現在「額」について持っているところの、「二重額」つまり内額と外額からなる二重の額(枠)と言う構想と連動している「三重の枠」の一つで「絵の中の枠」と呼んでいるものです。

つまり、それは「絵の中の額」でもあるわけです。

こちらも、【Gallery】の絵をご覧いただければと思います。

リアリズムは、現実を写し取るものなのでしょうか?

いえ、言い直します。

リアリズムは、現実を写し取らねばいけないものなのでしょうか?

確かに、リアリズムは「現実=リアル」を表現することを指している言葉なのだとは思いますが、その言葉の意味に、そんなにも忠実である必要はないのではないでしょうか?

現在、「抽象表現」は、その意味を失いつつあるように思います。

それは、ただ単に、「抽象」が流行の先端から取り残されてしまったということではなく、もともと「抽象表現」と、その在り方や捉えられ方に不十分な所があったということではないかと思います。

要するに、「抽象表現」には、「肉体性=具体性」が欠如していたということが、その「不十分な所」なのだと思うのです。

「抽象」ですから「具体性」がないのは当り前ですし、「具体性=肉体性」を追求してしまえば、それは、当然「具象」に成ってしまいます。

しかし、「抽象表現」において、「具象性」は、そうまでして排除しなければいけないものだったのでしょうか?

そうです、ここで、冒頭の問いに戻ってしまうのです。

『リアリズムは、現実を写し取らねばいけないものなのか?』

『「抽象表現」において、「具象性」は、そうまでして排除しなければいけないものなのか?』

この二つの問いは、裏返しではありますが、ほとんど同じような内容だと言っていいでしょう。

「抽象」と「具象」のどちらを選んだ場合でも、もう一方の側を徹底して排除することに力を使い過ぎてきたのではないでしょうか?

「肉体性=具象性」のないものは「表現」とは成り得ません。

また、「精神性=抽象性」がないものは空虚と言わざるを得ません。

「抽象」が必要になったのは、表現の領域を広げるためだったと思いますが、いつの間にか、「抽象」に極化することだけが目的となってしまい、表現力が置いて行かれてしまったのだと思います。

その結果、「創作者」も「鑑賞者」も、その「やや乏しい表現力」を鵜呑みにせざるを得なかったということではないでしょうか?

以上のようなことから、私は『抽象なんだけどモノを描くよ』と言う考え方で制作しております。

そして、それを「異現実のリアリズム」と呼んでいるわけです。

できる限り、現実には存在しない世界を描くことと、その「異現実の世界」を、出来る限り現実に存在しているかのようにリアルに描くことを目指しています。

現実から離れれば離れるほどナマナマしく、リアルであればあるほど幻想的であるような、そんな「異現実の世界」を描き出していきたいと思っています。

※「奇をてらったもの」を目指しているわけではありません。

ですから、どうしても「現実」に引きずられますし、やや中途半端なものに成ってしまうこともありますが、上に書いたことは、私が目標として設定している「私にとっての幻想の世界」なのです。

もしも、興味を持っていただける方がいらっしゃるのであれば、下の【ギャラリーへ】をクリックしてみてください。

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また、作品をご覧になる場合は、上のメニューか下の【ギャラリーへ】からどうぞ。

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