§「静かなること」がプラスティックの世界に「革命」を起こす
「レボリューション=革命」とは、「魂の解放」であり、「権力の追放」であると考えます。
「テロリズム」は、「抑圧に対する抗議活動」であり、その「活動の広告」であると考えます。
つまり、「テロ」とは、そこに抑圧を受け苦しむ者が居るということを、世間に知らしめるための手段ではあっても、それ自体が「解放」へ向かう行動ではないのだと思います。
従って、「テロ」が「テロ」のまま終わってしまえば、「抗議する者の存在」を世間に対して告知することは出来るでしょうが、実際には、「権力」は生き残ることに成るでしょうし、人の魂が「解放」されることはないのだと思います。
現在の社会において、あまりにも多くの人の心の中に「救いようのないほどの孤独」があり、そこに「閉じ込められてしまっている魂」を解放する必要性が高まっていることは、間違いようのない事実です。
私は、今後も、この「プラスティックの世界」=「人間を酷使するマシンと化した社会」という現実に甘んじて居られると考えている人の気が知れません。
虐げられている人々の、頭の上に足を置いて、そこで得られる利益を受けながら、それを「豊かな時代」と言っていていいのでしょうか?
今後も、それを「文明」と呼び続けることが出来るのでしょうか?
それを「ホモ・サピエンス=知性ある人」と呼ぶことに意味があるでしょうか?
まして、それを「芸術」と呼ぶことに、いったい何の意味があるというのでしょう?
もう、これ以上「プラスティックの世界」と言う「構造的な支配」を受け入れ続けることは出来ません。
しかし、「抗議する者の存在」を知らせるだけでは、誰も救われることはないでしょう。
もはや、「犠牲の時」は過ぎてしまいました。
「報復の時」も終わろうとしています。
つまり、「テロ」を終わらせる「革命の時」が来ているということです。
そして、いま、「テロ」を「革命」に押し上げるものは、「民衆の参加」を置いてほかにはありません。
「指導者」は必要ありません。
なぜなら、これは「無名人の芸術」による「静かなる革命」なのですから。
「打倒すべき権力者」は居ません。
相手は、「人間」ではなく「社会と言うシステム」なのですから。
「芸術」と言う「静かなること」が、「人間を酷使するシステム」と化した「プラスティックの世界」による拘束と支配を解放し、そこに命を吹き込み色彩を与えるのです。
無機質的な機械文明と、冷酷な効率主義に基づいて、人間が社会に酷使されてしまっている現状、即ち「人間精神の浪費型社会(経済)」を逆回転させ、人間が社会と言うシステムを使って、人間自身の魂を解放し、人間自身の精神の豊かさを生み出すことにこそ、その機械的な効率を使っていけるように成れば、きっと、この「プラスティックの世界」は崩壊し、残り少なくなった資源を自然と人間が共有する形で、もっとも有効に使っていけるように成るのだと思います。
そして、この「芸術による静かなる革命」=「サイレント・レボリューション」が、「少数のリーダー」や「限られた指導者」と言った、いわゆる「才能ある人たち」や「有名な人たち」によってではなく、世界中のいたるところに70億人ほども居る「無名人たち」によって、静かに、そして、尊厳をもって成し遂げられたとき、世界は、「芸術すること」で埋め尽くされ、歴史上初めて、「人間の魂」が解放されることに成るでしょう。
その時、「芸術者」の周囲には、「勝敗や競争のない世界」が生まれ、その「芸術することで埋め尽くされた世界」では、すべての人が「無名人」に成り、すべての「個人」が「ちがう個人」に成り、「全体」という概念が失われて、世界は「個の集合」に成っていくでしょう。
わたしは、そんなことを考えているのです。
※ここに書いたことは、「過去に実在した革命」とは違う「静かなる革命」についてのことです。
実際には、何かを打倒する必要も、誰かを失墜させる必要もありません。
ただ、出来る限り多くの人が「芸術」に関わりを持つように成っていけば、それだけで、その一人一人の魂が解放され、自己の持つ「個人性」に目を向けられるように成り、結果的には、これまで個人を部品として使ってきた社会が初めて個人に向けて解放されるときが来るだろうということです。
つまり、それは「無為(=静かなること)による革命」なのです。
一見すれば「机上の空論」と見えることでしょう。
しかし、「芸術すること」や「哲学すること」、そして、そこに出現する「美しさ」を根拠にして社会を運営した場合、この過剰なまでの生産力が獲得された現在、まだ人間が競争する理由は残っているでしょうか?
そして、その時、人の魂が解放されずに居続けるとするなら、いったい何に拘束され続けるというのでしょう?
『美しさに?』
ならば、私はその拘束を受け入れます。