∬ N とは無名人の名前 ∬
私は、ここに書いてあることを、一人の無名人として行っていきたいと思っています。
有名な人がやったのでは、意味のないことです。
天才の時代は、もう百年も前に終わっていますから。
興味を持っていただける方がいらっしゃれば、読んでみてください。
※以下において「芸術」と言っているのは、必ずしも「美術」とは限りません。
「音楽」や「文学」を含めた意味であるのはもちろんのこと、人間が表現するものであれば『どんなものでも芸術と言うに値する』という前提で「芸術」という言葉を使っています。
おもに、平面作品として油彩画を制作していますが、平面作品と、その周辺的な要素、例えば、「額」であるとか、「題(タイトル)」であるとかと言った、これまで軽視されてきた「絵の周辺にあるモノ」との関係を見直し、そこに意味を生み出していくことで、作品本体との間に「表現の多重化」を発生させられれば『まじめな芸術は、まだまだ生きのびられるのでは?』と考えています。
そうした「絵の周辺にあるモノ」の意味を再発見していくことで、現在、「行き止まり感」も否定できない「絵画表現の領域」を広げられるのではないかと思っています。
また、芸術表現全般についても、この「表現の多重化」こそが、その「領域」を広げるために残された唯一の道であると感じております。
さらに言えば、そのような「創作者の姿勢」が「鑑賞者」そして「批評者」へと広がって行く過程で、現在の人間を締め付けている「社会的拘束」が、ほんのわずかにでも解放されることに成れば、それを「芸術による革命」と考えることもできるのではないだろうか・・・・・
そんな期待も、個人的には持っているのです。
※この絵は「自画像」ではなく、もしも、現在の世の中に「イエス・キリスト」が生きていたら、どんな人に成っているのだろうか?という発想で描いた絵です。
想像上の人物ですので、モデルは居ません。
キリスト教徒ではありませんが、「現代のイコン」というイメージで描きました。
この絵を描いていく過程で、「現代の若きキリスト」は、きっと悲しみをたたえて生きていくことに成るのだろうと思うように成りました。
※これは「芸術」を政治的・社会的に利用しようという話ではありません。
そうではなくて、今「芸術」が社会を無視すれば「芸術」は滅びるだろうという話であり、何かに魅了された魂にとっては、政治や経済の持つ意味は限りなく小さくなるという話なんです。
※ここでは「テロと革命」を、現在の社会が根源的に内在している「人間軽視・物質重視」という方向性に対する「反逆の象徴」と捉え、「暴力的なテロ」とは一線を画したものとして考えています。
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§【世界・同時・多発 芸術=被害者のいないテロリズム】§
芸術は、世界に存在し得る唯一の「被害者のいないテロリズム」と成る可能性を持っています。
この意味において、私はバンクシーやマレーナ・アブラモヴィッチ等の活動を支持します。
しかし、彼らはあくまで有名アーティストであり、有名であればこそ出来る活動をしています。
でも、それでは多くの無名人たちは、彼らを支持することはできても、そこに参加することは出来ないのです。
「テロ」を「革命」に押し上げるものは「民衆の参加」以外にありません。
いま、すべての無名人たちに「テロリスト・オブ・アート」として、そこに参加する必要と権利があります。
※「社会」には、民衆の意思を無視して、個人を不条理に使役し翻弄するという性質があります。
そのような「大多数の個人にとっての不利益や不満を生産し続けるシステムと化してしまった現在の社会」に対する反逆と解放を、犠牲者を出さずに行うことを、ここでは「広義のテロ」と考えています。
私は、私に与えられた「一人の無名人」という最も一般的で無力な立場において、「だれもが参加できる芸術」という「非暴力的なテロ」を目指します。
そうです、「民衆を被害者として巻き込んでしまうテロ」ではなく、「民衆の参加」によって「人間を社会的ストレスから解放するテロ」を目指しているのです。
そう、これは「テロを破壊するためのテロ」なのです。
そのためには「全員参加のテロリズム」である必要があります。
まったくの無名人である大多数の人が参加することによって、暴力的で破壊的なテロリズムに内包されている「怒り」・「恨み」・「憎しみ」といった強烈なパワーを圧倒し浄化することが出来るのではないか・・・・
私は、それを不可能なことだとは思いません。
だから、私自身も「一人の完全なる無名人」として、そこに参加させてもらおうと思っているわけです。
これが出来るのは「芸術」だけではないでしょうか?
そこに参加する人の数が増えた分だけ個人性の数も増やすことができるのは、「芸術」だけではありませんか?
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「テロ」を非難することは簡単です。
不当であり、不法であり、理不尽に暴力的である「テロ」を批判すれば、その批判は確実に正当なものとして通ることに成るでしょう。
しかし「自爆テロ」が多発する現在、「テロ」を起こしている側の者は確実に自分の命を犠牲にして抗議していますが、「テロ」を非難している側の人たちの中に、果たして自分の命を犠牲にしてでも「テロ」を防ごうとする人が居るでしょうか?
本来、「テロ」は不当な暴力的支配に対する抗議活動として発生するものであり、暴力的・破壊的であることは、「テロ」の本質的な意味とは言えません。
いや、むしろ、「テロ」の本質的な意味は「無言の抗議」の持つ「反暴力性」にこそあるのだと思います。
現在、芸術には、その「無言の抗議」=「被害者なきテロ」という役割が生まれようとしています。
いま、芸術が社会にナニカを与えるべき時なのではないでしょうか?
『芸術が、そんな偉そうなことを言ってはいけない!』と言われてしまうのかも知れません。
でも、いつの間にか、その言葉こそが、その「偉そうなこと」に成ってしまっているのではないでしょうか?
これまで、芸術と言う分野は100年間ほどもの間、何をやっても許されて来たように思います。
そういう、世の中からの「恩」を受けるだけ受け取ってきた芸術が、それを少しだけ返そうとすることは、そんなに「偉そうなこと」ではないと思うのです。
『芸術が世の中に「恩返し」をする時が来ている』
そう思うのは、おこがましいことなのでしょうか?
いま振り返ってみれば、「20世紀」において、芸術は間違いなく一種のテロ(既成概念に対する反逆・破壊・脅威)としての意味を持っていました。
しかし、それは、「芸術の20世紀」と言う時代の波に翻弄され、その渦巻く波が静まったころには思いもよらない所に行きついてしまいました。
それが、現在の「オモシロイ芸術」や「オシャレな芸術」と言う芸術の在り方ではないかと思います。
「モダン・アート」を否定するつもりはありません。
しかし、それでは足りないのです。
「オモシロさ」や「オシャレさ」では、テロは無くなりませんし、人間性を復活させることもできないのです。
テロの持つ「怒り」や「恨み」や「憎しみ」をも凌駕するような、「まじめな芸術」だけが「テロを破壊するテロ」と成り得ます。
そして、世界中で同時・多発的に、すべての人たちが自由に参加できるテロリズムでなければ、そこに「被害者の居ないテロリズム」が実を結ぶことはないでしょう。
その「全員参加の非暴力的なテロ」こそが、「暴力的なテロ」を圧倒し得る唯一の「被害者のいないテロ」であるのだと思います。
※現代アートの代表的な作家の一人「ダミアン・ハースト」は、「9.11アメリカ同時多発テロ」の映像を見たときのことを『まるで現代アートを見ているようだった』と語ったそうです。
その言葉は偶然の思い付きだったのでしょうか?
いいえ、それは「現代アート」が「テロのモデル」を創り出してしまったということであり、「テロ」が「アート」を圧倒してしまったということに違いありません。
これを、これからも続けていきますか?
答えは一つしかありません。
「NO!」
§【芸術の20世紀喪失宣言】§
私は、2014年3月、「芸術の20世紀喪失宣言」と言うブログを公開して以来、「芸術の20世紀」と言う時代を喪失し、新たなフィールドに立つことで、芸術表現の領域を開拓して行こうと思って制作を続けています。
※この「芸術の20世紀喪失宣言」については、「古典への回帰」と受け取られてしまう傾向があるようですが、それとは正反対の方向性を持った考えです。
つまり、私には「今の芸術」が100年もの間、根本的に更新されていないように見えるということなのです。
それは、これまで人間が翻弄される一方であった「時代の流れ」に対して、はじめて人間が反逆するという「挑戦」であり、また、人間が、「本当の人間」として、あらためて世界に出現する「新たな人類創生」へ向けてのはじめの1ページでもあると思っています。
『なにを大げさな』と言われるのであれば、その通りだと思いますし、その誹り(そしり)を受けることは構いません。
ただ、「挑戦」と言う気持ちでやっていることだということだけを、わかっていただければと思います。
「芸術の20世紀」と言う「時代」に対して、何の疑問も感じないという人にとっては、ほとんど意味のないことだと思います。
しかし、もし、ほんのわずかでも、そこに疑問を感じたことがある方であれば、ここには「ナニカ」意味があると思います。
『これから先も、まだ、芸術を「天才だけのもの」にしておくのですか?』
『芸術が、高いところから「一般人」を見下ろしていてもいいと思いますか?』
『そもそも、「鑑賞者」を「一般人」呼ばわりしてもいいのでしょうか?』
『そのような「上等な芸術」は、将来にわたっても「美しいもの」であり続けられるのでしょうか?』
『カジュアルなふりをしていながら、実は難解で、「一般人の理解」をけむに巻くような「コンセプチュアルなアート」に、実は、もうみんな飽きてしまっているのではないのですか?』
「理解しようとするな!感じろ!!」
『これを、これから先も言い続けていきますか?』
『以上のすべてを踏まえたうえでも、まだ「抽象表現」は必要でしょうか?』
『それとも、また「具象」に戻りますか?』
『いや、そもそも、「抽象」は、まだ、始まってもいないのではないでしょうか?』
『それなのに、「抽象らしい抽象」だけを、「抽象とはこういうものだ!」と決めつけてしまっていないでしょうか?』
『私たちは、今後も、「抽象らしい抽象」を「抽象」と呼び、「抽象らしくないものを具象」と呼び、「具象らしい具象」を「写実」と呼んでいかなければならないのでしょうか?』
※上の8点の絵は、ベニヤ板にキャンバスの端切れを貼って描いた小さな絵です。
もとは、習作として描いたものでしたが、その後「幻想大百科図鑑」という構想が浮かんできたため、そこに収めようと思っています。
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これらの疑問を、一度でも感じたことがある方は、試しに「芸術の20世紀」を「喪失」してみてください。
きっと、なにかが「晴れやか」に成り、なにかが「すがすがしく」成り、なにかが「気持ちよく」成ると、私はそう思います。